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TOKYO BUCKET LIST. 都市の愉しみ方 お菓子から建築、アートまで歩いて探す愉しみいろいろ。

第40回:高田賢三・夢のあとさき

Profile
関 直子 Naoko Seki
東京育ち、東京在住。武蔵野美術大学卒業後、女性誌編集者を経てその後編集長を務める。現在は気になる建築やアート、展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。


「人間は若くて無名で貧乏でなければよい仕事はできない。」
こう言ったのは毛沢東だ。

高田賢三がパリに渡った時、彼は若く、お金もなく、無名だった。

今、日本の首相の名前は知らなくても、OZUやKUROSAWA、KENZOやISSEYを知らないフランス人はまずいない。
映画やファッションという文化の分野において、世界に多大なる影響を与えた人物だからだ。

6月27日で閉幕してしまったが、「高田賢三回顧展-Dreams to be continued-」展が彼の母校である「文化学園服飾博物館」で開催された。
これは、新型コロナウイルスによって昨年他界したファッションデザイナー・高田賢三の足跡を、学生時代に挑戦した「装苑賞」受賞作品からパリ・モードの流れを大きく変えた1970年代、世界を席巻した’80年代までを約100点の作品で辿るものだ。

伝説のようなサクセス ・ストーリーが、どのようにはじまり発展したのかを目の当たりにするいい機会だった。

高田賢三は男子学生を受け入れるようになったばかりの文化服装学院に入学し、デザイナーの登竜門「装苑賞」を在学中に受賞。その後勤めた既製服会社に半年の休暇届けを出し1964年に1ヶ月の船旅を経てパリに着く。

船旅を薦めたのは彼の恩師、小池千枝だ。1958年に、彼女も南回りの船で1ヶ月かけてパリへ渡り、パリ・クチュール組合学校「サンディカ」に留学し、イヴ・サン=ローランやカール・ラガーフェルド等と学んだ経験があったからだ。大きなトルソーを抱えて飛行機で帰国した小池は、パリで学んだばかりの立体裁断を賢三ら学生達に教えた。

高田賢三の作品
高田賢三の受賞した第8回「装苑賞」受賞作品(1960年)、コンテストで賢三の服を着たモデルは入江美樹。高田賢三の同期生にはコシノ・ジュンコ、松田光弘、金子功などその後日本のファッション界を牽引するデザイナーの卵たちが揃っていて、「花の9期生」と呼ばれた。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター

会場のエントランスには、花で彩られたKENZOの文字と、若き日の高田賢三が最初の店の壁画を描いている巨大なモノクロ写真が掲げられている。
賢三が描いているのは、アンリ・ルソーの「夢」をイメージしたジャングルの絵だ。

パリに渡った賢三は半年過ぎても日本に帰らず、1970年4月パリ2区にあるパッサージュ(19世紀に流行ったガラス屋根のあるアーケード街)ギャルリー・ヴィヴィエンヌにブティック「ジャングル・ジャップ」を開き、店内でショーを開催した。賢三の快進撃はここからはじまったのだ。

花で彩られたKENZOの文字と、若き日の高田賢三が最初の店の壁画を描いている巨大なモノクロ写真
1969年、ギャラリー・ヴィヴィエンヌに6店舗を持つスパングレー夫人と偶然知り合い、彼女からの誘いで45番地の元紳士服店を借りることになった。パリの「ルラシオン・テキスティル」社で働いていた文化服装学院の同級生の近藤淳子(左下)とスタイリング部門をもつデザイナー集団「マフィア」社でスタイリストをしていた安斎敦子(右)を誘って3人で店をはじめた。近藤、安斎と3人で店全体にジャングルを描いている高田賢三。 写真:筆者提供

私の元上司は、この展覧会のために多くのKENZOの服を貸与していて、その彼女に服にまつわるエピソードを聞きながら会場を巡ることができたのは幸運だった。
彼女は、文化服装学院で賢三と後に彼の右腕になる近藤敦子と同期生で、二人ととても親しかった。

「ジャングル・ジャップ」で売るための服を、急遽つくることになった賢三は、準備のため帰国して浅草や日暮里の繊維街での生地探しをした。
元上司は、それも手伝ったという。

日本橋「竺仙」のゆかた地、総絞りの帯揚げ、呉服屋で譲ってもらった染見本の端切れが集まった。
縫製工場へ頼む資金もないので、装苑賞作品製作に関わった近藤がパリでも彼に協力し、イメージ通りにパターンを引きトワルも組み、服を仕上げたという。
パリに留学中の母校の先生達にも協力してもらい、つくり上げた春夏コレクション。
その中の1点が、雑誌『ELLE』(1971年3月号)の表紙を飾った。
このドレスの生地は、浅草の日本舞踊専門の店で買った反物だそうだ。
そういえばこれは、麻の葉を2色で斜め段違いに染めた「麻の葉段鹿の子」という有名な柄。紅色と浅葱色を斜めに配した目にも鮮やかな文様で、「妹背山」「三人吉三」などの舞台でも"ヒロイン"を特に際立たせる衣装だ。
シンプルなマキシ丈のシャツドレスだが、『ELLE』の編集者にも強烈な印象を与えたのだろう。

雑誌『ELLE』(1971年3月号)
はじめてのコレクションが表紙を飾った『ELLE』誌。 写真:筆者提供
高田賢三がデザインしたシャツドレス
『装苑』『ハイファッション』を発行する文化出版局にはパリ支局があり、賢三のパリ・デビューとその後を常に記事にしていた。 写真:筆者提供

71 SSのニット、71-72 AWなどの初期の作品が保存されていたのも驚きだ。

高田賢三の71 SSのニット、71-72 AWなどの初期の作品
写真提供:文化学園ファッションリソースセンター

賢三は初コレクションをトランクに詰めて『ELLE』『マリ・クレール』などファッション誌の編集部を訪ねてまわり、開店日のショーに編集者を招待した話は有名だ。
WWDのオフィスに賢三がそのトランクを持ち込んだ時のことを、当時記者だったパトリシア・マッコールはこう語っている。

「取り出し始めた服は、布の端きれみたいにしわくちゃでした。お金がなかったから安いサンピエール市場の素材でつくってあったのです。しかし服を見たとたんに、このムッシューの大きな才能を感じました。それがしわくちゃで小さなものであっても、端の端まで才能が溢れているようでした」(『KENZO 高田賢三作品集』1985年 文化出版局刊 より)

生地の卸売業者から仕入れることもできないので、サンピエール市場で買った安価な布が使われていたのだ。
ファッション写真でしか見たことがなかったが、実物を近くで見ると高価な布地でないことが一目でわかる。そして木製のアンティークボタンが付けられていることに気付く。
1970年代のはじめにパリの蚤の市で私が買ったデッドストックのものとそっくりだ。

内装にかけるお金がないから自ら壁画を描く。生地やボタンは自分のイメージに合うものを人のやらない方法で探し出す。そして、その思いや夢の実現に向かって支えてくれる人がいっぱいいたのだ。

高田賢三の70年代初期の作品
71-72 AW ヒマラヤ風のフォークロアのコート。パッチワークと直線裁ちを多様している。ピレネーと呼ばれるラフな厚地ウールに木綿の花柄やチェックを合わせている。 写真:筆者提供
高田賢三の服に使われたアンティークボタン
デッドストックの木のボタン。賢三も蚤の市へ古いリボンや古い布を見つけに行っていた。 写真:筆者提供

71 SSで発表したマリン・カラーの直線ニットは、ハイウエストのセーラーパンツとのコーディネートでこれもKENZOの代表作の一つ。
72-73 AWのマトン・スリーブのニットなどと並べて展示されている。ラベルは「JAP difusion CAROLL PARIS」、「JAP PARIS TOKYO」と様々。
まだKENZOとしてパリのプレタポルテ・コレクションでデビューを果たす'72年以前の作品だということがわかる。

高田賢三がデザインした服
71 SSから72-73 AW、73 SSのニット。初期のニットは岡村嘉子の作。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター
高田賢三がデザインした服
パリのオートクチュールはダーツで顧客の身体にそわせる古典的な手法だったが、この71-71 AW はそれに対抗するよう直線裁ちに本格的に取り組んだ「アンチクチュール」。 写真:筆者提供 右)『装苑』(1971年9月号)右のモデルは当時装苑専属モデルだったティナ・ラッツ。 撮影:増渕達夫 

ニット、花柄プリント、色のミックス、キモノの構造からのフォルム……。初期のコレクションは、パリのプレスたちにとって何もかもが新鮮で、オートクチュールから移行する新時代のファッションだと予感させるに十分だったのだ。

その後一世を風靡した75 SSの東洋のペザント・ルック、75-76 AWのチャイニーズ・ルック、76 SSのアフリカン・ルックが服飾博物館所蔵品の世界の民族衣装とレイアーで展示されているところがさすがだ。

高田賢三がデザインした服
文化学園服飾博物館所蔵の清朝の装束との比較も興味深い。 写真:筆者提供
高田賢三がデザインした服
サテンに刺繍のプチ・サックとニットに毛糸刺繍のチャイナドレス。 写真:筆者提供
高田賢三がデザインした服
75SSの東洋のペザント・ルックのコレクションで登場した唐桟をパッチワークしたプチ・サックは大流行した。 写真:筆者提供
高田賢三がデザインした服
75-76AW チャイナ・ルック。チャイナカラーの打ち合わせが新鮮。ほっそりしたチューブラインとローウエスト「ラ・タイユ・バズ(la taille basse)」が特徴。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター

KENZOファッションのシグネチャーの一つともなったフォークロア・ファッション。その原点となったのは彼の「旅」だ。
パリを目指した船旅で賢三は香港、サイゴン、ムンバイ、マルセイユなどのさまざまな都市に寄港した。
その旅で出会った人々の装束が、創作の源泉になったという。

73-74 AWのルーマニアの民族衣装の写真集からインスパイアされた花柄と細かなプリーツの華やかさは圧倒的で、それを発展させた81-82 AWのロシア・ルックも素晴らしい。目も覚めるような花とチェック、ストライプ 、色の組み合わせは圧巻だ。'80年代はオリジナルプリントをつくることができるようになり、その素材も上質で生産背景が安定していたことがわかる。

高田賢三がデザインした服
82-83 AWの東欧のフォークロア。前シーズンの82 SSのロマンティック・バロックのフリルの多用を引き継いで、大柄の花プリントをたっぷり使ったギャザーやスモック使いなどが特徴。 写真:筆者提供
高田賢三がデザインした服
81-82AW ロシア・ルック。賢三自身、最も好きなコレクションと語った73-74 AWのルーマニア・ルックで発見した東欧の晴れ着の魅力。鮮やかな薔薇の花プリント、プリーツたっぷりのスカートやペチコートの発展形。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター
高田賢三がデザインした服
鮮やかな色同士の組み合わせが野暮にも下品にならないのが賢三の世界。 写真:筆者提供
高田賢三がデザインした服
ロシアの民族衣装の鮮やかなバラを思わせるビビッドな花プリント。 写真:筆者提供
高田賢三がデザインした服
84 SSから84-85 AW、85-86 AWまで様々なコレクションの一群。多色配色の色と色、ストライプ、チェック、花などの柄と柄の組み合わせ、素材もフォルムもアフリカ、中東、中米、南米など様々な民族衣装から想を得たもの。核となったのはパリで出会った民族衣装とその裁断を集めた一冊の本。それらが賢三の中で混在一体化して 独自のフォークロワの世界、KENZOワールドは生まれたのだ。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター

コレクションでいつも最後に発表されたウエディングドレスの数々と、個人のためにデザインされたドレスもあった。

高田賢三がデザインしたドレス
ショーの最後を飾るのはいつもウエディングドレス。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター
高田賢三がデザインしたドレス
87 AW ウエディングドレス。馬に乗る花嫁はモデルの山口小夜子。この写真は小夜子のドキュメンタリー映画「氷の花火」のメインビジュアルにもなった。 写真:筆者提供
http://yamaguchisayoko.com
https://www.youtube.com/watch?v=Bw2tclaBWa4
高田賢三がデザインしたドレス
個人のためにデザインしたもの。シルク生地を託された賢三は細かなプリーツを施しマトンスリーブのウエディングドレスに。1980年ごろの作。 写真:筆者提供

帽子から靴、靴下までフルコーディネートの3体もある。しかもマネキンは四谷シモン作だ。

高田賢三がデザインした服
1989年、西武・有楽町アートフォーラムで開催された「Liberte KENZO」展。そこで展示された四谷シモンデザインのマネキンと当時のままのフルコーディネートの3体。左)72-73 AW ツイード・ルック。布地はアイルランドのMCNUTT(マックナッツ)社で織られたドニゴール・ツイード。中)、右)73 SSの麻と木綿混紡のグレンチェックを使ったジャケットとニッカボッカーズ。大きなキャスケットはチャップリンの映画「Kid」の子役ジャッキー・クーガンのかぶっていた帽子がヒント。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター

KENZOの30周年と自身の60歳を区切りに、高田賢三はブランドから退いた。
1999年10月「KENZO 30ANS」と題された盛大なファッション・ショーは、パリ郊外の巨大なコンサート会場「ゼニット」で開かれた。世界中を旅する構成のライブミュージシャンやダンサーによる陽気な祝祭に彩られたステージで、30年間のコレクションの中から選んだ300点を2時間かけて披露するもの。
賢三のために約4000人が駆けつけ賛辞を贈ったという。ファッション・ショーの概念を覆した賢三の面目躍如、集大成ともいえるショーだった。
FASHION NETWORK > Key Fashion Moment : 1999 – 30 years of Kenzo and the Departure of its Creator, Kenzo Takada

インビテーション・カードと30年の仕事を克明に記録した『ハイファッション』誌も展示されている。
このショーを核に高田賢三特集を企画したのは、当時『ハイファッション』誌の編集長だった元上司だ。

KENZOのファッションショーのインビテーション・カードと30年の仕事を克明に記録したハイファッション誌
'90年、賢三は最愛のパートナーを亡くし、仕事上の永年の右腕・近藤敦子も病に倒れる。そんな最中KENZOブランドはLVMHに買収され、彼は99年に引退を決意する。その最後のショーを特集した『ハイファッション』(2000年2月号 文化出版局)。ショーは賢三が「アロー、アロー」と病床の近藤への呼びかける声ではじまる。山口小夜子は82-82 AWに着た華やかなリボンをはぎ合わせたフォークロアのウエディングドレスで舞い踊った。 写真提供:文化学園ファッションリソースセンター

高田賢三がパリに渡った時、彼は若く、お金もなく、無名だった。

けれど、パリにはそれを支えてくれる人がいて、彼を見出す人もいた。

「ケンゾーは起こりつつある事柄に敏感な人だと思います」これは彼の第一発見者のような『ELLE』の元編集者クロード・ブルエの言葉だ。
時代が彼を必要とした、そしてそれを彼の感受性で感じとった。
では、歳を重ね、富と名声を得た人はそれ以降いったい何ができるのだろう。
そんなことを思わされる展示だった。

展示は終わったが回顧展の図録の小冊子が発行されている。
展覧内容とともに、企画者の上田多美子 文化学園リソースセンター長の思いが溢れているのでこれも必見。


<関連情報>

□「高田賢三回顧展-Dreams to be continued-」図録
https://www.bunka-koubai.com/shop/itemdetail.php?n=1750

「高田賢三回顧展-Dreams to be continued-」図録

・文化学園服飾博物館
https://museum.bunka.ac.jp/about/
・文化学園ファッションリソースセンター
https://www.bunka.ac.jp/frc/
・文化学園大学図書館
https://lib.bunka.ac.jp

□高田賢三のドキュメンタリー映画「#KENZO TAKADA」
http://kenzotakada-film.com

□KENZO TAKADA COLLECTION auction
https://www.artcurial.com/en/sale-4114-kenzo-takada-collection

□「KENZO 高田賢三作品集」(1985年 文化出版局刊)
https://www.amazon.co.jp/Kenzo―高田賢三作品集-高田-賢三/dp/4579501128

「KENZO 高田賢三作品集」

□高田賢三と私の37年間 鈴木三月
https://www.fashionsnap.com/article/kenzo-takada-yayoi-suzuki-01/

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2021/07/05

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